昭和歌謡 | 演歌好太郎の演歌道 https://kashumeikan.wiki 演歌・歌謡曲に特化した歌手情報 Wed, 10 Sep 2025 18:42:25 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.3 梓みちよ|昭和の歌謡界を駆け抜けた不世出のスター https://kashumeikan.wiki/azusa-michiyo/ Wed, 10 Sep 2025 18:42:25 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1633 梓みちよは、清純なイメージの「こんにちは赤ちゃん」と、大人の魅力を開花させた「二人でお酒を」という二つの国民的ヒット曲で知られる伝説的な歌手です。代表曲「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」、そして「メランコリー」で見せる表現力は圧巻です。その華やかなキャリアと、歌謡史に刻んだ大きな足跡は今なお多くの人々に記憶されています。

プロフィール

芸名 梓 みちよ (あずさ みちよ)
本名 林 美千代 (はやし みちよ)
出身地 福岡県福岡市博多区
生年月日 1943年6月4日(没年76歳)
血液型 O型
身長 情報なし
レーベル キングレコード、CBS・ソニー 他
所属事務所 渡辺プロダクション、プロダクション尾木 他
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1962年
デビュー曲 ボッサ・ノバでキッス
公式サイト なし
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名
関係者 桂三枝(現・六代 桂文枝)※「新婚さんいらっしゃい!」で共演

梓みちよの来歴|演歌界を彩った軌跡

デビューと「こんにちは赤ちゃん」での大成功

福岡女学院高校を中退後、宝塚音楽学校へ進学。 [1] 在学中に渡辺プロダクションのオーディションに合格し、同校も中退して上京しました。 [1] 1962年、「ボサノバ娘」のキャッチフレーズで「ボッサ・ノバでキッス」でデビュー。 [5] そして翌1963年、永六輔氏作詞、中村八大氏作曲の「こんにちは赤ちゃん」が空前の大ヒットを記録します。 [13] この曲で第5回日本レコード大賞を受賞し、一躍トップスターの仲間入りを果たしました。 [5, 11] NHK紅白歌合戦にも初出場し、昭和天皇の前で歌唱を披露するなど、国民的な人気歌手となりました。 [18]

「二人でお酒を」での華麗なる転身

「こんにちは赤ちゃん」の清純なイメージが定着したことに悩み、一時期は人気が低迷します。 [7] しかし1974年、作詞・山上路夫氏、作曲・平尾昌晃氏による「二人でお酒を」が大ヒット。 [2, 3] あぐらをかいて歌う斬新なパフォーマンスも話題となり、大人の歌手としてのイメージチェンジに大成功しました。 [2] この曲で第16回日本レコード大賞・大衆賞など数々の賞を受賞し、紅白歌合戦にも5年ぶりに返り咲きました。 [1, 4] この成功は、彼女のキャリアにおける最大の転換期と言えるでしょう。

マルチな活躍と晩年

歌手活動と並行し、人気番組「新婚さんいらっしゃい!」の2代目アシスタントを務めるなど、タレントとしても幅広く活躍しました。 [1] その後も「メランコリー」(1976年)、「よろしかったら」(1979年)など、ヒット曲を連発。 [7] しかし2020年1月29日、マネージャーが都内の自宅で倒れているのを発見され、その場で死亡が確認されました。死因は心不全で、76年の生涯に幕を閉じました。 [1, 12]

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1979年9月21日 よろしかったら 阿木燿子 筒美京平 圏外
1976年9月21日 メランコリー 喜多條忠 吉田拓郎 萩田光雄 8位
1974年3月25日 二人でお酒を 山上路夫 平尾昌晃 森岡賢一郎 11位
1963年11月5日 こんにちは赤ちゃん 永六輔 中村八大 中村八大 1位
1962年 ボッサ・ノバでキッス 水島哲 J.Sherman, N.Sherman 宮川泰 圏外

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
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DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 第18回日本レコード大賞 編曲賞(1976年) – 「メランコリー」
  • 第16回日本レコード大賞 大衆賞(1974年) – 「二人でお酒を」
  • 第5回日本歌謡大賞 放送音楽賞(1974年) – 「二人でお酒を」
  • 第5回日本レコード大賞 大賞(1963年) – 「こんにちは赤ちゃん」

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いしだあゆみ|女優と歌手、二つの顔で魅了する昭和のスター https://kashumeikan.wiki/ishida-ayumi/ Sat, 06 Sep 2025 19:25:18 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1585 いしだあゆみは、スタイリッシュな歌声と洗練された表現力、そして女優としての確かな演技力で心を震わせる昭和のマルチスターです。代表曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」「あなたならどうする」は時代を象徴する大ヒットとなり、その都会的な魅力で一世を風靡しました。近年は、女優として数々の話題作に出演し、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞に輝くなど、その存在感は今なお多くの人々を魅了しています。

プロフィール

芸名 いしだあゆみ
本名 石田 良子(いしだ よしこ)
出身地 長崎県佐世保市生まれ、大阪府池田市育ち
生年月日 1948年3月26日(享年76歳)
血液型 B型
身長 163cm
レーベル 日本コロムビア
所属事務所 イザワオフィス
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1964年
デビュー曲 ネェ、聞いてよママ
公式サイト なし
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名
関係者 石田治子(姉・フィギュアスケート選手)、石田ゆり(妹・歌手)、なかにし礼(義弟・作詞家)

いしだあゆみの来歴|昭和の芸能界を彩った軌跡

デビュー初期

幼少期よりフィギュアスケート選手として活躍していましたが、芸能界にスカウトされ、1964年に「いしだあゆみ」の芸名で歌手デビューを果たしました。デビュー当時は大きなヒットに恵まれませんでしたが、テレビドラマ「七人の孫」などに出演し、女優としても活動を開始。そのキュートなルックスと演技力で、タレントとして徐々に人気を高めていきました。

「ブルー・ライト・ヨコハマ」での大ブレイク

歌手に専念するため1968年に日本コロムビアへ移籍。同年発売の移籍第1弾シングル「太陽は泣いている」がスマッシュヒットします。そして運命の曲となるのが、12月にリリースされた「ブルー・ライト・ヨコハマ」です。作詞・橋本淳、作曲・筒美京平によるこの曲は、150万枚を超えるミリオンセラーとなり、彼女の代表曲となりました。この大ヒットにより、翌年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、一躍トップスターの仲間入りを果たしました。

女優としての成功

1970年代以降は、活動の軸を女優業へと本格的にシフトさせていきます。映画「青春の門 自立篇」での演技が高く評価されると、その後も「駅 STATION」や「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」、テレビドラマ「北の国から」など、数々の話題作に出演。1986年の映画「火宅の人」では、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞をはじめとする数々の映画賞を総なめにし、演技派女優としての地位を不動のものとしました。

現在

歌手としては一線を退いていますが、女優として現在も活躍を続けています。その洗練された美貌と確かな演技力は健在で、多くの作品に深みを与えています。2021年には旭日小綬章を受章するなど、長年の功績が高く評価されています。歌手として、そして女優として、昭和から平成、令和へと時代を駆け抜けてきた彼女の存在は、日本の芸能史において唯一無二の輝きを放ち続けています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

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発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1974/01/25 幸せだったわありがとう 橋本淳 筒美京平 筒美京平 42位
1973/09/10 愛の氷河 橋本淳 筒美京平 筒美京平 42位
1972/01/25 さすらいの天使 橋本淳 筒美京平 筒美京平 18位
1971/08/25 おもいでの長崎 橋本淳 筒美京平 筒美京平 10位
1971/05/10 砂漠のような東京で 橋本淳 中村泰士 森岡賢一郎 3位
1970/10/10 何があなたをそうさせた 橋本淳 筒美京平 筒美京平 12位
1970/07/15 昨日のおんな なかにし礼 井上忠夫 井上忠夫 8位
1970/03/25 あなたならどうする なかにし礼 筒美京平 筒美京平 2位
1969/11/20 喧嘩のあとでくちづけを なかにし礼 中村泰士 森岡賢一郎 7位
1969/08/01 今日からあなたと 橋本淳 筒美京平 筒美京平 7位
1969/04/15 涙の中を歩いてる 橋本淳 筒美京平 筒美京平 10位
1968/12/25 ブルー・ライト・ヨコハマ 橋本淳 筒美京平 筒美京平 1位
1968/06/15 太陽は泣いている 橋本淳 筒美京平 筒美京平 18位
1964/07/05 ネェ、聞いてよママ 安井かずみ 早川博二 早川博二 圏外

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2008/12/17 いしだあゆみ ステレオハイライト+ボーナストラック ネェ、聞いてよママ、サチオ君 など
2004/04/21 いしだあゆみ・しんぐるこれくしょん コロムビア時代の全シングルA面曲を収録
1977/–/– いしだあゆみ&ティン・パン・アレイ・ファミリー アワー・コネクション 私自身、バイ・バイ・ジェット など

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1969年 第11回日本レコード大賞 作曲賞(「ブルー・ライト・ヨコハマ」作曲者・筒美京平が受賞)
  • 1977年 報知映画賞 助演女優賞(青春の門 自立篇)
  • 1982年 ヨコハマ映画祭 主演女優賞(野獣刑事)
  • 1987年 第10回日本アカデミー賞 最優秀主演女優賞(火宅の人、時計 Adieu l’Hiver)
  • 1987年 ブルーリボン賞 主演女優賞(火宅の人、時計 Adieu l’Hiver)
  • 2021年 旭日小綬章

メディア出演・話題の番組

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市丸|「ビクターの鶯」と謳われた伝説の芸者歌手 https://kashumeikan.wiki/ichimaru/ Sat, 06 Sep 2025 04:53:14 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1578 市丸は、粋な美貌と「ビクターの鶯」と称された澄んだ歌声で心を震わせる伝説の芸者歌手です。代表曲「天龍下れば」で一世を風靡し、戦後は「三味線ブギウギ」を大ヒットさせました。ライバルであった小唄勝太郎と共に「勝市時代」を築き、昭和初期の歌謡界に君臨。その歌声は、古き良き日本の情緒を今に伝える貴重な文化遺産となっています。

プロフィール

芸名 市丸(いちまる)
本名 後藤 まつゑ(ごとう まつえ)
出身地 岐阜県岐阜市
生年月日 1906年7月16日(1997年2月17日没、享年90)
血液型 情報なし
身長
レーベル ビクター
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技 端唄、小唄
デビュー 1931年
デビュー曲 花嫁東京
公式サイト ビクターエンタテインメント | 市丸
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名 江戸小唄市丸、ビクターの鶯
関係者 小唄勝太郎(ライバル)

市丸の来歴|昭和の歌謡史を彩った軌跡

浅草の芸者から歌手へ

10代で長野県の温泉地で半玉(芸者の見習い)としてキャリアをスタートさせ、その後上京し、東京・浅草の芸者となりました。その美貌と優れた芸で瞬く間に人気芸者となり、文人や著名人など多くの顧客に愛されました。その評判がレコード会社の目に留まり、1931年にビクターレコードから「花嫁東京」で歌手としてデビュー。芸者としての高い人気と実力が、歌手としての成功への大きな足掛かりとなりました。

「天龍下れば」と黄金時代

1933年に発表した「天龍下れば」が、当時の流行作曲家・中山晋平の曲であったこともあり、空前の大ヒットを記録。この曲で市丸は一躍スター歌手の座に上り詰めました。同じくビクターに所属していた芸者歌手の小唄勝太郎と共に「勝市時代」と呼ばれる一時代を築き、昭和初期の歌謡界を牽引する存在となります。その澄んだ美しい歌声は「ビクターの鶯」と称され、多くの人々を魅了しました。

戦後の活躍と「三味線ブギウギ」

戦時中も歌手活動を続け、戦後はその人気がさらに高まります。1949年に服部良一作曲の「三味線ブギウギ」を発表。三味線の音色とモダンなブギウギのリズムが融合したこの曲は、戦後の明るい世相を象徴する大ヒットとなり、市丸の新たな代表曲となりました。この曲は美空ひばりをはじめ多くの歌手にカバーされ、時代を超えて愛される名曲となっています。

伝統芸能の継承者として

歌手活動の一方で、江戸時代から続く日本の伝統音楽である端唄や小唄の発展と継承にも尽力しました。1950年には自身の名を冠した「江戸小唄市丸派」を創設し、家元として後進の指導にあたりました。その功績が認められ、1981年には勲四等宝冠章を受章。晩年まで精力的に活動を続け、日本の伝統音楽の保存に大きく貢献しました。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1949/10/– 三味線ブギウギ 佐伯孝夫 服部良一 服部良一 圏外
1936/–/– ちゃっきり節 北原白秋 町田嘉章 圏外
1933/–/– 天龍下れば 長田幹彦 中山晋平 圏外
1931/–/– 花嫁東京 西條八十 中山晋平 圏外

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2005/06/22 “SP盤復刻”絕唱!市丸 天龍下れば、三味線ブギウギ、ちゃっきり節 など
1995/03/24 市丸 全曲集 天龍下れば、三味線ブギウギ、伊那節、ちゃっきり節 など

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1970年 第12回日本レコード大賞 特別賞
  • 1972年 紫綬褒章
  • 1981年 勲四等宝冠章

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井沢八郎|「あゝ上野駅」で時代を歌った望郷演歌の星 https://kashumeikan.wiki/izawa-hachiro/ Fri, 05 Sep 2025 14:31:10 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1570 井沢八郎は、力強く伸びやかな高音で心を震わせる昭和の演歌歌手です。代表曲「男船」でデビューし、不朽の名作「あゝ上野駅」で時代の寵児となりました。この曲は集団就職で上京した若者たちの心情を歌い上げ、「心の応援歌」として社会現象になるほどの大ヒットを記録。その歌声は、昭和という時代を象徴する伝説として今なお語り継がれています。

プロフィール

芸名 井沢八郎(いざわ はちろう)
本名 工藤 金一(くどう きんいち)
出身地 青森県弘前市
生年月日 1937年3月18日(2007年1月17日没、享年69)
血液型
身長
レーベル 東芝音楽工業
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1963年
デビュー曲 男船
公式サイト なし
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名
関係者 工藤夕貴(長女)、工藤正貴(長男)、青羽美代子(妻)

井沢八郎の来歴|昭和の歌謡界を駆け抜けた軌跡

デビュー前

青森県弘前市に生まれ、中学生の頃からその歌唱力は地元で評判でした。 歌手を志して中学校卒業後に上京し、バンドマンとしてベースを弾きながら、作曲家の大沢浄二氏に師事し夢を追い続けました。 この下積み時代に培われた音楽経験と、故郷を離れて都会で頑張る自身の境遇が、後の彼の歌に深い説得力をもたらすことになります。

「あゝ上野駅」での大ヒット

1963年に「男船」で東芝音楽工業からデビューを果たします。 そして1964年、彼の運命を決定づける一曲と出会います。 それが、集団就職で上京する若者たちの望郷の念を歌った「あゝ上野駅」です。 この曲は「金の卵」と呼ばれた若者たちの共感を呼び、空前の大ヒットを記録。 井沢八郎の名を全国に知らしめると共に、高度経済成長期の日本を象徴する国民的愛唱歌となりました。 このヒットにより、翌年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たしています。

その後の活躍と晩年

「あゝ上野駅」の後も、「北海の満月」や「男傘」といったヒット曲を世に送り出しました。 しかし、時代の変化と共に、かつてのような大ヒットには恵まれず、不遇の時代も経験しました。 晩年は、懐メロ番組などで再びその姿を見せる機会が増え、「あゝ上野駅」が昭和を代表する名曲として再評価されます。 2007年1月17日、食道がんのため逝去。 奇しくもその日は長女・工藤夕貴さんの誕生日であり、病床で最後に「おめでとう」と伝えたという逸話が残っています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1966年 さいはての男 圏外
1965年 北海の満月 圏外
1964年 男傘 圏外
1964年5月 あゝ上野駅 関口義明 荒井英一 圏外
1963年 男船 松井由利夫 大沢浄二 圏外

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
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DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1964年 第6回日本レコード大賞 新人賞(あゝ上野駅)
  • 2007年 第49回日本レコード大賞 特別功労賞

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青江三奈|ため息とハスキーボイスで魅了したブルースの女王 https://kashumeikan.wiki/aoe-mina/ Thu, 04 Sep 2025 02:58:16 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1564

青江三奈は、その特徴的なハスキーボイスと官能的なため息で心を震わせる伝説の歌手です。代表曲「伊勢佐木町ブルース」「池袋の夜」などで見せる表現力は圧巻で、「ブルースの女王」として昭和の歌謡界に不動の地位を築きました。ミリオンセラーを連発し、一時代を築いた彼女の歌声は、今なお多くの人々を魅了し続けています。

プロフィール

芸名 青江三奈(あおえ みな)
本名 井原 静子(いはら しずこ)
出身地 東京都江東区
生年月日 1941年5月7日(2000年7月2日没、享年59)
血液型 A型
身長
レーベル ビクターエンタテインメント
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1966年
デビュー曲 恍惚のブルース
公式サイト ビクターエンタテインメント | 青江 三奈
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名 ブルースの女王
関係者 川内康範(作詞家・芸名の名付け親)

青江三奈の来歴|演歌界を彩った軌跡

デビューと「伊勢佐木町ブルース」での大ブレイク

高校卒業後、百貨店勤務を経てクラブ歌手として活動を開始しました。1966年に「恍惚のブルース」でデビューし、ハスキーボイスで歌い上げるブルース演歌が評判となり、80万枚を売り上げるヒットを記録します。そして1968年、冒頭の色っぽい「ため息」が大きな話題を呼んだ「伊勢佐木町ブルース」が100万枚を超えるミリオンセラーとなり、一躍トップスターの座に駆け上がりました。この曲で日本レコード大賞歌唱賞など、数々の音楽賞を受賞しました。

ブルースの女王、そして紅白の常連へ

「伊勢佐木町ブルース」の翌年には「長崎ブルース」「池袋の夜」も立て続けにミリオンセラーを記録し、特に「池袋の夜」は150万枚を売り上げる自身最大のヒット曲となりました。これにより史上初の2年連続日本レコード大賞歌唱賞を受賞するという快挙を成し遂げます。「ブルースの女王」の異名は不動のものとなり、NHK紅白歌合戦には通算18回出場、そのうち16回は連続出場という記録を残し、昭和を代表する国民的歌手としての地位を確立しました。

晩年と後世への影響

1980年代以降も精力的に活動を続け、ジャズアルバムのリリースや海外公演なども行いました。しかし、1998年にすい臓がんが発覚し、闘病生活に入ります。病と闘いながらもステージへの情熱は衰えませんでしたが、2000年7月2日、59歳の若さで惜しまれつつこの世を去りました。彼女の唯一無二の歌声と世界観は、後進のアーティストにも大きな影響を与え、その楽曲は今なお多くの人々に歌い継がれる不滅のスタンダードナンバーとなっています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1990/07/21 レディ・ブルース
1982/–/– 横浜みれん坂
1969/11/05 国際線待合室 千坊さかえ 花礼二 近藤進
1969/07/01 池袋の夜 吉川静夫 渡久地政信 寺岡真三
1968/07/05 長崎ブルース 吉川静夫 渡久地政信 寺岡真三
1968/01/05 伊勢佐木町ブルース 川内康範 鈴木庸一 竹村次郎
1966/06/21 恍惚のブルース 川内康範 浜口庫之助 寺岡真三

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2000/10/21 青江三奈のすべて 伊勢佐木町ブルース、池袋の夜、長崎ブルース、恍惚のブルース など
1993/–/– THE SHADOW OF LOVE Cry Me A River、Bourbon Street Blues (伊勢佐木町ブルース) など
1990/–/– レディ・ブルース

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1968年 第10回日本レコード大賞 歌唱賞(伊勢佐木町ブルース)
  • 1968年 第1回日本有線大賞 スター賞(伊勢佐木町ブルース)
  • 1969年 第11回日本レコード大賞 歌唱賞(池袋の夜)
  • 1990年 第32回日本レコード大賞 優秀アルバム賞(レディ・ブルース)

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青木光一|昭和歌謡を彩った伝説の歌手、その軌跡に迫る https://kashumeikan.wiki/aoki-koichi/ Wed, 03 Sep 2025 06:41:47 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1562

青木光一は、伸びやかで張りのある歌声と、誠実な人柄で心を震わせる昭和の国民的歌手です。代表曲「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」、そしてヒットのきっかけとなった「元気でね、左様なら」などで見せる表現力は圧巻です。戦後の日本を歌で明るく照らし、その功績は今なお歌謡史に燦然と輝いています。

プロフィール

芸名 青木光一(あおき こういち)
本名
出身地 佐賀県唐津市
生年月日 1926年2月17日(99歳)
血液型 情報なし
身長
レーベル 日本コロムビア
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1950年
デビュー曲 きらめくスバル
公式サイト 日本コロムビア | 青木光一
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名
関係者 青木はるみ(実妹)、永田とよ子(元妻)

青木光一の来歴|演歌界を彩った軌跡

戦前・戦中

佐賀県唐津市で生まれた青木光一は、幼い頃に満州へ渡りました。 1944年に旧制中学を卒業後、奉天中央放送合唱団に入団し、そこで指導をしていた作曲家の米山正夫と出会います。 しかし、翌年には関東軍に入隊し、終戦後はシベリア抑留という過酷な経験をしました。 この苦難の時代が、後の彼の歌に深い情感を与えることになります。

デビューとブレイク

1949年にシベリアから帰国後、先に帰国していた米山正夫の推薦を受け、1950年に日本コロムビアに入社し「きらめくスバル」でデビューを果たします。 当初はヒットに恵まれませんでしたが、1953年の「元気でね、左様なら」で人気に火が付き、1955年の「小島通いの郵便船」も大ヒットし、一躍スター歌手の仲間入りを果たしました。

黄金期と国民的歌手へ

作曲家・船村徹との出会いが、青木光一をさらなる高みへと導きます。1956年の「早く帰ってコ」が大ヒットすると、翌1957年には望郷演歌の名作「柿の木坂の家」が空前の大ヒットを記録しました。 この曲で彼の人気は不動のものとなり、同年「二代目船長さん」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。 その後もヒット曲を連発し、昭和を代表する国民的歌手として一時代を築きました。

現在

長年にわたり日本の歌謡界に貢献し、1983年からは日本歌手協会の理事、理事長、会長を歴任し、現在は名誉会長を務めています。 平成に入ってからも、第40回日本レコード大賞で功労賞を受賞するなど、その功績は高く評価されています。 90歳を超えた現在も、イベントに出演するなど精力的に活動を続けており、その歌声は今も多くの人々に愛され続けています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1960年 オーロラ鷗
1959年 出港前夜
1957年 柿の木坂の家 石本美由起 船村徹
1957年 二代目船長さん
1956年 早く帰ってコ 船村徹
1955年 小島通いの郵便船
1953年 元気でね、左様なら
1952年 月が出ている港町 野村俊夫 米山正夫
1950年 若い嵐
1950年 きらめくスバル

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2018/07/18 青木光一全曲集 柿の木坂の家 柿の木坂の家、早く帰ってコ、小島通いの郵便船 など
2013/08/21 決定盤 青木光一大全集 柿の木坂の家、早く帰ってコ、元気でね、左様なら など
2007/11/21 思い出のアルバム 柿の木坂の家、早く帰ってコ、小島通いの郵便船 など
2004/08/25 青木光一全曲集 柿の木坂の家、早く帰ってコ、僕は流しの運転手 など

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1950年 芸能新聞人気投票新人賞
  • 1999年 第40回日本レコード大賞 功労賞
  • 2005年 第38回日本作詩大賞 特別賞

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