昭和歌謡 | 演歌好太郎の演歌道 https://kashumeikan.wiki 演歌・歌謡曲に特化した歌手情報 Sat, 06 Sep 2025 04:53:14 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.8.2 市丸|「ビクターの鶯」と謳われた伝説の芸者歌手 https://kashumeikan.wiki/ichimaru/ Sat, 06 Sep 2025 04:53:14 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1578 市丸は、粋な美貌と「ビクターの鶯」と称された澄んだ歌声で心を震わせる伝説の芸者歌手です。代表曲「天龍下れば」で一世を風靡し、戦後は「三味線ブギウギ」を大ヒットさせました。ライバルであった小唄勝太郎と共に「勝市時代」を築き、昭和初期の歌謡界に君臨。その歌声は、古き良き日本の情緒を今に伝える貴重な文化遺産となっています。

プロフィール

芸名 市丸(いちまる)
本名 後藤 まつゑ(ごとう まつえ)
出身地 岐阜県岐阜市
生年月日 1906年7月16日(1997年2月17日没、享年90)
血液型 情報なし
身長
レーベル ビクター
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技 端唄、小唄
デビュー 1931年
デビュー曲 花嫁東京
公式サイト ビクターエンタテインメント | 市丸
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名 江戸小唄市丸、ビクターの鶯
関係者 小唄勝太郎(ライバル)

市丸の来歴|昭和の歌謡史を彩った軌跡

浅草の芸者から歌手へ

10代で長野県の温泉地で半玉(芸者の見習い)としてキャリアをスタートさせ、その後上京し、東京・浅草の芸者となりました。その美貌と優れた芸で瞬く間に人気芸者となり、文人や著名人など多くの顧客に愛されました。その評判がレコード会社の目に留まり、1931年にビクターレコードから「花嫁東京」で歌手としてデビュー。芸者としての高い人気と実力が、歌手としての成功への大きな足掛かりとなりました。

「天龍下れば」と黄金時代

1933年に発表した「天龍下れば」が、当時の流行作曲家・中山晋平の曲であったこともあり、空前の大ヒットを記録。この曲で市丸は一躍スター歌手の座に上り詰めました。同じくビクターに所属していた芸者歌手の小唄勝太郎と共に「勝市時代」と呼ばれる一時代を築き、昭和初期の歌謡界を牽引する存在となります。その澄んだ美しい歌声は「ビクターの鶯」と称され、多くの人々を魅了しました。

戦後の活躍と「三味線ブギウギ」

戦時中も歌手活動を続け、戦後はその人気がさらに高まります。1949年に服部良一作曲の「三味線ブギウギ」を発表。三味線の音色とモダンなブギウギのリズムが融合したこの曲は、戦後の明るい世相を象徴する大ヒットとなり、市丸の新たな代表曲となりました。この曲は美空ひばりをはじめ多くの歌手にカバーされ、時代を超えて愛される名曲となっています。

伝統芸能の継承者として

歌手活動の一方で、江戸時代から続く日本の伝統音楽である端唄や小唄の発展と継承にも尽力しました。1950年には自身の名を冠した「江戸小唄市丸派」を創設し、家元として後進の指導にあたりました。その功績が認められ、1981年には勲四等宝冠章を受章。晩年まで精力的に活動を続け、日本の伝統音楽の保存に大きく貢献しました。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1949/10/– 三味線ブギウギ 佐伯孝夫 服部良一 服部良一 圏外
1936/–/– ちゃっきり節 北原白秋 町田嘉章 圏外
1933/–/– 天龍下れば 長田幹彦 中山晋平 圏外
1931/–/– 花嫁東京 西條八十 中山晋平 圏外

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2005/06/22 “SP盤復刻”絕唱!市丸 天龍下れば、三味線ブギウギ、ちゃっきり節 など
1995/03/24 市丸 全曲集 天龍下れば、三味線ブギウギ、伊那節、ちゃっきり節 など

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
現時点でリリース情報は取得できませんでした

受賞歴

  • 1970年 第12回日本レコード大賞 特別賞
  • 1972年 紫綬褒章
  • 1981年 勲四等宝冠章

ライブ・コンサート・イベント情報

日時 会場 イベント名
現時点でイベント情報は取得できませんでした

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井沢八郎|「あゝ上野駅」で時代を歌った望郷演歌の星 https://kashumeikan.wiki/izawa-hachiro/ Fri, 05 Sep 2025 14:31:10 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1570 井沢八郎は、力強く伸びやかな高音で心を震わせる昭和の演歌歌手です。代表曲「男船」でデビューし、不朽の名作「あゝ上野駅」で時代の寵児となりました。この曲は集団就職で上京した若者たちの心情を歌い上げ、「心の応援歌」として社会現象になるほどの大ヒットを記録。その歌声は、昭和という時代を象徴する伝説として今なお語り継がれています。

プロフィール

芸名 井沢八郎(いざわ はちろう)
本名 工藤 金一(くどう きんいち)
出身地 青森県弘前市
生年月日 1937年3月18日(2007年1月17日没、享年69)
血液型
身長
レーベル 東芝音楽工業
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1963年
デビュー曲 男船
公式サイト なし
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名
関係者 工藤夕貴(長女)、工藤正貴(長男)、青羽美代子(妻)

井沢八郎の来歴|昭和の歌謡界を駆け抜けた軌跡

デビュー前

青森県弘前市に生まれ、中学生の頃からその歌唱力は地元で評判でした。 歌手を志して中学校卒業後に上京し、バンドマンとしてベースを弾きながら、作曲家の大沢浄二氏に師事し夢を追い続けました。 この下積み時代に培われた音楽経験と、故郷を離れて都会で頑張る自身の境遇が、後の彼の歌に深い説得力をもたらすことになります。

「あゝ上野駅」での大ヒット

1963年に「男船」で東芝音楽工業からデビューを果たします。 そして1964年、彼の運命を決定づける一曲と出会います。 それが、集団就職で上京する若者たちの望郷の念を歌った「あゝ上野駅」です。 この曲は「金の卵」と呼ばれた若者たちの共感を呼び、空前の大ヒットを記録。 井沢八郎の名を全国に知らしめると共に、高度経済成長期の日本を象徴する国民的愛唱歌となりました。 このヒットにより、翌年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たしています。

その後の活躍と晩年

「あゝ上野駅」の後も、「北海の満月」や「男傘」といったヒット曲を世に送り出しました。 しかし、時代の変化と共に、かつてのような大ヒットには恵まれず、不遇の時代も経験しました。 晩年は、懐メロ番組などで再びその姿を見せる機会が増え、「あゝ上野駅」が昭和を代表する名曲として再評価されます。 2007年1月17日、食道がんのため逝去。 奇しくもその日は長女・工藤夕貴さんの誕生日であり、病床で最後に「おめでとう」と伝えたという逸話が残っています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1966年 さいはての男 圏外
1965年 北海の満月 圏外
1964年 男傘 圏外
1964年5月 あゝ上野駅 関口義明 荒井英一 圏外
1963年 男船 松井由利夫 大沢浄二 圏外

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
現時点でリリース情報は取得できませんでした

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1964年 第6回日本レコード大賞 新人賞(あゝ上野駅)
  • 2007年 第49回日本レコード大賞 特別功労賞

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ライブ・コンサート・イベント情報

日時 会場 イベント名
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青江三奈|ため息とハスキーボイスで魅了したブルースの女王 https://kashumeikan.wiki/aoe-mina/ Thu, 04 Sep 2025 02:58:16 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1564

青江三奈は、その特徴的なハスキーボイスと官能的なため息で心を震わせる伝説の歌手です。代表曲「伊勢佐木町ブルース」「池袋の夜」などで見せる表現力は圧巻で、「ブルースの女王」として昭和の歌謡界に不動の地位を築きました。ミリオンセラーを連発し、一時代を築いた彼女の歌声は、今なお多くの人々を魅了し続けています。

プロフィール

芸名 青江三奈(あおえ みな)
本名 井原 静子(いはら しずこ)
出身地 東京都江東区
生年月日 1941年5月7日(2000年7月2日没、享年59)
血液型 A型
身長
レーベル ビクターエンタテインメント
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1966年
デビュー曲 恍惚のブルース
公式サイト ビクターエンタテインメント | 青江 三奈
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名 ブルースの女王
関係者 川内康範(作詞家・芸名の名付け親)

青江三奈の来歴|演歌界を彩った軌跡

デビューと「伊勢佐木町ブルース」での大ブレイク

高校卒業後、百貨店勤務を経てクラブ歌手として活動を開始しました。1966年に「恍惚のブルース」でデビューし、ハスキーボイスで歌い上げるブルース演歌が評判となり、80万枚を売り上げるヒットを記録します。そして1968年、冒頭の色っぽい「ため息」が大きな話題を呼んだ「伊勢佐木町ブルース」が100万枚を超えるミリオンセラーとなり、一躍トップスターの座に駆け上がりました。この曲で日本レコード大賞歌唱賞など、数々の音楽賞を受賞しました。

ブルースの女王、そして紅白の常連へ

「伊勢佐木町ブルース」の翌年には「長崎ブルース」「池袋の夜」も立て続けにミリオンセラーを記録し、特に「池袋の夜」は150万枚を売り上げる自身最大のヒット曲となりました。これにより史上初の2年連続日本レコード大賞歌唱賞を受賞するという快挙を成し遂げます。「ブルースの女王」の異名は不動のものとなり、NHK紅白歌合戦には通算18回出場、そのうち16回は連続出場という記録を残し、昭和を代表する国民的歌手としての地位を確立しました。

晩年と後世への影響

1980年代以降も精力的に活動を続け、ジャズアルバムのリリースや海外公演なども行いました。しかし、1998年にすい臓がんが発覚し、闘病生活に入ります。病と闘いながらもステージへの情熱は衰えませんでしたが、2000年7月2日、59歳の若さで惜しまれつつこの世を去りました。彼女の唯一無二の歌声と世界観は、後進のアーティストにも大きな影響を与え、その楽曲は今なお多くの人々に歌い継がれる不滅のスタンダードナンバーとなっています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1990/07/21 レディ・ブルース
1982/–/– 横浜みれん坂
1969/11/05 国際線待合室 千坊さかえ 花礼二 近藤進
1969/07/01 池袋の夜 吉川静夫 渡久地政信 寺岡真三
1968/07/05 長崎ブルース 吉川静夫 渡久地政信 寺岡真三
1968/01/05 伊勢佐木町ブルース 川内康範 鈴木庸一 竹村次郎
1966/06/21 恍惚のブルース 川内康範 浜口庫之助 寺岡真三

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2000/10/21 青江三奈のすべて 伊勢佐木町ブルース、池袋の夜、長崎ブルース、恍惚のブルース など
1993/–/– THE SHADOW OF LOVE Cry Me A River、Bourbon Street Blues (伊勢佐木町ブルース) など
1990/–/– レディ・ブルース

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
現時点でリリース情報は取得できませんでした

受賞歴

  • 1968年 第10回日本レコード大賞 歌唱賞(伊勢佐木町ブルース)
  • 1968年 第1回日本有線大賞 スター賞(伊勢佐木町ブルース)
  • 1969年 第11回日本レコード大賞 歌唱賞(池袋の夜)
  • 1990年 第32回日本レコード大賞 優秀アルバム賞(レディ・ブルース)

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青木光一|昭和歌謡を彩った伝説の歌手、その軌跡に迫る https://kashumeikan.wiki/aoki-koichi/ Wed, 03 Sep 2025 06:41:47 +0000 https://kashumeikan.wiki/?p=1562

青木光一は、伸びやかで張りのある歌声と、誠実な人柄で心を震わせる昭和の国民的歌手です。代表曲「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」、そしてヒットのきっかけとなった「元気でね、左様なら」などで見せる表現力は圧巻です。戦後の日本を歌で明るく照らし、その功績は今なお歌謡史に燦然と輝いています。

プロフィール

芸名 青木光一(あおき こういち)
本名
出身地 佐賀県唐津市
生年月日 1926年2月17日(99歳)
血液型 情報なし
身長
レーベル 日本コロムビア
所属事務所
尊敬する歌手
趣味・特技
デビュー 1950年
デビュー曲 きらめくスバル
公式サイト 日本コロムビア | 青木光一
公式ブログ なし
X(Twitter) なし
Facebook なし
Instagram なし
YouTube なし
ファンクラブ なし
別名
関係者 青木はるみ(実妹)、永田とよ子(元妻)

青木光一の来歴|演歌界を彩った軌跡

戦前・戦中

佐賀県唐津市で生まれた青木光一は、幼い頃に満州へ渡りました。 1944年に旧制中学を卒業後、奉天中央放送合唱団に入団し、そこで指導をしていた作曲家の米山正夫と出会います。 しかし、翌年には関東軍に入隊し、終戦後はシベリア抑留という過酷な経験をしました。 この苦難の時代が、後の彼の歌に深い情感を与えることになります。

デビューとブレイク

1949年にシベリアから帰国後、先に帰国していた米山正夫の推薦を受け、1950年に日本コロムビアに入社し「きらめくスバル」でデビューを果たします。 当初はヒットに恵まれませんでしたが、1953年の「元気でね、左様なら」で人気に火が付き、1955年の「小島通いの郵便船」も大ヒットし、一躍スター歌手の仲間入りを果たしました。

黄金期と国民的歌手へ

作曲家・船村徹との出会いが、青木光一をさらなる高みへと導きます。1956年の「早く帰ってコ」が大ヒットすると、翌1957年には望郷演歌の名作「柿の木坂の家」が空前の大ヒットを記録しました。 この曲で彼の人気は不動のものとなり、同年「二代目船長さん」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。 その後もヒット曲を連発し、昭和を代表する国民的歌手として一時代を築きました。

現在

長年にわたり日本の歌謡界に貢献し、1983年からは日本歌手協会の理事、理事長、会長を歴任し、現在は名誉会長を務めています。 平成に入ってからも、第40回日本レコード大賞で功労賞を受賞するなど、その功績は高く評価されています。 90歳を超えた現在も、イベントに出演するなど精力的に活動を続けており、その歌声は今も多くの人々に愛され続けています。

ディスコグラフィ

シングル(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 作詞 作曲 編曲 最高順位
1960年 オーロラ鷗
1959年 出港前夜
1957年 柿の木坂の家 石本美由起 船村徹
1957年 二代目船長さん
1956年 早く帰ってコ 船村徹
1955年 小島通いの郵便船
1953年 元気でね、左様なら
1952年 月が出ている港町 野村俊夫 米山正夫
1950年 若い嵐
1950年 きらめくスバル

アルバム(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 収録曲
2018/07/18 青木光一全曲集 柿の木坂の家 柿の木坂の家、早く帰ってコ、小島通いの郵便船 など
2013/08/21 決定盤 青木光一大全集 柿の木坂の家、早く帰ってコ、元気でね、左様なら など
2007/11/21 思い出のアルバム 柿の木坂の家、早く帰ってコ、小島通いの郵便船 など
2004/08/25 青木光一全曲集 柿の木坂の家、早く帰ってコ、僕は流しの運転手 など

DVD(発売日順:新→旧)

発売日 タイトル 備考
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受賞歴

  • 1950年 芸能新聞人気投票新人賞
  • 1999年 第40回日本レコード大賞 功労賞
  • 2005年 第38回日本作詩大賞 特別賞

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