青木光一は、伸びやかで張りのある歌声と、誠実な人柄で心を震わせる昭和の国民的歌手です。代表曲「柿の木坂の家」「早く帰ってコ」、そしてヒットのきっかけとなった「元気でね、左様なら」などで見せる表現力は圧巻です。戦後の日本を歌で明るく照らし、その功績は今なお歌謡史に燦然と輝いています。
プロフィール
芸名 |
青木光一(あおき こういち) |
本名 |
– |
出身地 |
佐賀県唐津市 |
生年月日 |
1926年2月17日(99歳) |
血液型 |
情報なし |
身長 |
– |
レーベル |
日本コロムビア |
所属事務所 |
– |
尊敬する歌手 |
– |
趣味・特技 |
– |
デビュー |
1950年 |
デビュー曲 |
きらめくスバル |
公式サイト |
日本コロムビア | 青木光一 |
公式ブログ |
なし |
X(Twitter) |
なし |
Facebook |
なし |
Instagram |
なし |
YouTube |
なし |
ファンクラブ |
なし |
別名 |
– |
青木光一の来歴|演歌界を彩った軌跡
戦前・戦中
佐賀県唐津市で生まれた青木光一は、幼い頃に満州へ渡りました。 1944年に旧制中学を卒業後、奉天中央放送合唱団に入団し、そこで指導をしていた作曲家の米山正夫と出会います。 しかし、翌年には関東軍に入隊し、終戦後はシベリア抑留という過酷な経験をしました。 この苦難の時代が、後の彼の歌に深い情感を与えることになります。
デビューとブレイク
1949年にシベリアから帰国後、先に帰国していた米山正夫の推薦を受け、1950年に日本コロムビアに入社し「きらめくスバル」でデビューを果たします。 当初はヒットに恵まれませんでしたが、1953年の「元気でね、左様なら」で人気に火が付き、1955年の「小島通いの郵便船」も大ヒットし、一躍スター歌手の仲間入りを果たしました。
黄金期と国民的歌手へ
作曲家・船村徹との出会いが、青木光一をさらなる高みへと導きます。1956年の「早く帰ってコ」が大ヒットすると、翌1957年には望郷演歌の名作「柿の木坂の家」が空前の大ヒットを記録しました。 この曲で彼の人気は不動のものとなり、同年「二代目船長さん」でNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。 その後もヒット曲を連発し、昭和を代表する国民的歌手として一時代を築きました。
現在
長年にわたり日本の歌謡界に貢献し、1983年からは日本歌手協会の理事、理事長、会長を歴任し、現在は名誉会長を務めています。 平成に入ってからも、第40回日本レコード大賞で功労賞を受賞するなど、その功績は高く評価されています。 90歳を超えた現在も、イベントに出演するなど精力的に活動を続けており、その歌声は今も多くの人々に愛され続けています。
ディスコグラフィ
シングル(発売日順:新→旧)
発売日 |
タイトル |
作詞 |
作曲 |
編曲 |
最高順位 |
1960年 |
オーロラ鷗 |
– |
– |
– |
– |
1959年 |
出港前夜 |
– |
– |
– |
– |
1957年 |
柿の木坂の家 |
石本美由起 |
船村徹 |
– |
– |
1957年 |
二代目船長さん |
– |
– |
– |
– |
1956年 |
早く帰ってコ |
– |
船村徹 |
– |
– |
1955年 |
小島通いの郵便船 |
– |
– |
– |
– |
1953年 |
元気でね、左様なら |
– |
– |
– |
– |
1952年 |
月が出ている港町 |
野村俊夫 |
米山正夫 |
– |
– |
1950年 |
若い嵐 |
– |
– |
– |
– |
1950年 |
きらめくスバル |
– |
– |
– |
– |
アルバム(発売日順:新→旧)
発売日 |
タイトル |
収録曲 |
2018/07/18 |
青木光一全曲集 柿の木坂の家 |
柿の木坂の家、早く帰ってコ、小島通いの郵便船 など |
2013/08/21 |
決定盤 青木光一大全集 |
柿の木坂の家、早く帰ってコ、元気でね、左様なら など |
2007/11/21 |
思い出のアルバム |
柿の木坂の家、早く帰ってコ、小島通いの郵便船 など |
2004/08/25 |
青木光一全曲集 |
柿の木坂の家、早く帰ってコ、僕は流しの運転手 など |
DVD(発売日順:新→旧)
発売日 |
タイトル |
備考 |
現時点でリリース情報は取得できませんでした |
受賞歴
- 1950年 芸能新聞人気投票新人賞
- 1999年 第40回日本レコード大賞 功労賞
- 2005年 第38回日本作詩大賞 特別賞
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情報源・参考リンク